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何をしてもいい。何もしなくてもいい。きみは、きみのままでいい。
「ゆめパ」は子どもたちみんなの遊び場。約1万㎡の広大な敷地には、子どもたちの「やってみたい」がたくさん詰まっています。手作りの遊具で思いっきり遊ぶ子どもたち。一緒にどろんこになっている親子。くるくると踊る子。小さな子どもを連れた自主保育のグループ。ゆめパにはいつも子どもと子どもに関わる大人が集っています。 ゆめパの一角には「フリースペースえん」があり、学校に行っていない子どもたちが自分の「好き」をあたためています。安心して、ありのままの自分で過ごせる場所で、虫や鳥を観察したり、木工細工に熱中したり、ゴロゴロ休息したり。でも、時には学校や勉強のことが気になる子も…。新しい春を前に、一人の子が自身の将来を考え始め––––––。 子どもも大人もみんなが作り手となって生み出される「居場所の力」と、時に悩みながらも、自ら考え歩もうとする「子どもの力」を描き出したドキュメンタリー。
いまを生きるすべての子どもとかつて子どもだった大人に贈る、生きる力を育む大切な”じかん”
2020年度の日本の児童や生徒の自殺者数は初めて400人を超え、小中学生の不登校児はおよそ20万人となりました。社会環境の大きな変化に大人たちが戸惑い、不安を感じている時こそ必要となる”子どもの居場所”。本作の撮影中、2020年3月に新型コロナウイルスの感染拡大により全国の学校が一斉休校となった時もゆめパは子どもたちを受け入れ続けました。 家庭でもない、学校でもない、第3の子どもの居場所を公設民営で運営している先進的なモデルとして、全国の自治体から注目を集めるゆめパの日々を3年にわたり撮影したのは、『さとにきたらええやん』の重江良樹監督。プロデューサーは『さとにたらええやん』『隣る人』の大澤一生、音楽とナレーションをあたたかな声が魅力のシンガーソングライター・児玉奈央が務めています。 遊ぶこと、学ぶこと、休息すること、人と共にあること。その輝きも揺らぎも、子どもたちのかけがえのない“じかん”はきっと大人たちにも大切なものを思い起こさせてくれることでしょう。
神奈川県川崎市高津区にある子どものための遊び場。2000年に制定された「川崎市子どもの権利に関する条例」をもとに官民協同で作られた。工場跡地を利用した約1万㎡の広大な敷地にはプレーパークエリア、音楽スタジオや創作スペース、ゴロゴロ過ごせる部屋のほか、学校に行っていない子どものための「フリースペースえん」が開設されている。未就園児から高校生くらいまで、幅広い年齢の子どもが利用している。
川崎市子どもの権利に関する条例
2000年12月21日に川崎市議会で成立し、2001年4月1日から施行されている条例。子どもの権利や理念をまとめた前半と、子どもの生活の場に応じた権利保障のあり方や具体的な保障の仕組みを定めた後半からできている。前半の子どもの権利については次のように記している。
・安心して生きる権利
・ありのままの自分でいる権利
・自分を守り、守られる権利
・自分を豊かにし、力づけられる権利
・自分で決める権利
・参加する権利
・個別の必要に応じて支援を受ける権利
雨でも遊べる
「全天候型スポーツ広場“たいよう”」
焚火をしてOK
「たき火エリア」
乳幼児・親子専用の部屋
「ゆるり」
ゴロゴロしていても怒られない
「ごろり」
学校ではない居場所
「フリースペースえん」
西野 博之にしの ひろゆき
認定NPO法人フリースペースたまりば理事長 1960年生まれ。86年から学校に行きづらい子どもたちの居場所づくりにかかわり、91年川崎市高津区に「フリースペースたまりば」を開設。以来、ひきこもりなど生きづらさを抱えた若者たち、さまざまな障がいをもつ人たちとも出会い、ともに地域で育ちあう場を続けてきた。98年から川崎市子ども権利条例調査研究員会の世話人として条例策定に携わり、条例制定後はその具現化を目指した川崎市子ども夢パークの開設に尽力。2021年まで15年間その所長を務めた。現在総合アドバイザー。
2003年に開設した「川崎市子ども夢パーク」。
2006年から昨年まで15年間所長を務めてきたのは西野博之さん。
市からその運営を委託されている「認定NPO法人フリースペースたまりば」の創設者で、31年に渡り“子どもの居場所”を運営し続けてきました。
時代による社会状況と子どもを取り巻く環境の変遷と、その都度の西野さんの想いやその原動力について伺いました。
(映画『ゆめパのじかん』インタビュー素材から抜粋)
「子ども権利条例」の具体的な実践
居場所のない子どもたちが安心して居ることができる場所を
Q:「川崎市子ども夢パーク」の成り立ちを教えて下さい
川崎市で、私もその策定に関わった「子ども権利条例」(※1)が2000年12月にできたんですが、その条例をもとに「川崎市子ども夢パーク」はつくられたんですね。条例の27条に“子どもの居場所”についての条文が入り、それを具現化しようということで子どもたちも一緒になってつくってきました。
なぜ“子どもの居場所”が必要だったかというと、2000年5月に「殺しの体験がしたかった」という17歳の少年が高齢者を殺害した事件(※2)、その2日後に佐賀県でバスジャック事件(※3)が起きて、犯人はやはり17歳の少年だった。当時世間で話題になったのは、「中高生が何を考えているかわからない」ということだったけれども、そのためには中高生の居場所をつくらなければならないというのが夢パークの原点で、音楽スタジオやスポーツ広場、そしていろんなことに挑戦できるプレーパーク(※4)づくりに着手したんです。
また2000年当時、川崎市内に不登校の小中学生が1,300人もいたんですね。地域の中にその子どもたちの居場所がない、どこに行けばいいのか。公的施設もあったけれどキャパが足りないし、受け入れにいろいろと制限がある。年齢や障害の枠を取っ払って、来たい人は誰でも来られる無料のフリースペースをつくろうということになりました。同時に学校に行っている子たちも相当ストレスをためこんでいる。だったら不登校の子どもたちが通うフリースペースと、学校に行っている・いないに関係なく誰でも自由に遊べるプレーパークを同じ敷地内につくってしまおうということになったんです。
※1/子どもの権利条例
1989年、国連で「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」が採択、1994年に日本がそれを批准したことを受けて、各自治体が制定したもの。「川崎市子どもの権利に関する条例」では大きく7つの項目を定めている。「①安心して生きること」「②ありのままの自分でいること」「③自分を守り、守られること」「④自分を豊かにし、力づけられること」「⑤自分で決めること」「⑥参加すること」「⑦個別の必要に応じて支援を受けること」。

※2/豊川市主婦殺人事件
2000年5月1日、愛知県豊川市にて17歳の少年が「殺人の体験をしてみたかった」として、通りがかった家の表札から住人は高齢者だと判断し、押し入って包丁で主婦を殺害した事件。少年は学業の不振から、強い挫折感と大学入試への不安を感じていた。

※3/西鉄バスジャック事件
2000年5月3日、佐賀県佐賀市にて17歳の少年が福岡行きのバスを占拠した事件。乗客3人を切り付け女性1人が死亡。サービスエリアで停車中に機動隊員が突入、逮捕した様子がテレビで生中継された。少年は中学でいじめにあい、高校は入学後すぐに中退、家庭内暴力で家族を悩ませていた。

※4/プレーパーク
従来の公園にあるような遊具はなく、子どもたちが想像力で工夫して、遊びを作り出すことの出来る遊び場でヨーロッパが発祥。日本では東京・世田谷にある「羽根木プレーパーク」が第一号。
高度経済成長で低賃金労働者が流入した川崎市の変遷
体罰や受験戦争で息苦しかった学校という場所
Q:そもそも、川崎市はなぜ「子どもの権利条例」を設定したのでしょうか?
背景として、京浜工業地帯を有する川崎市は高度経済成長期に工場がいっぱい出来て、低賃金の労働者が増えたんですが、外国籍の労働者も多かったことでもともと人権にかかわる問題が多い地域でした。さらに公害による病気も深刻になって、労働環境や人権の意識が高くなっていった地域ということもありました。
そんな川崎市では1980年に、浪人生が両親を金属バットでボコボコにして殺してしまうという事件(※5)が今の宮前区で起こりました。川崎は東京のベッドタウンとして私鉄沿線に集まってきて、高度経済成長期の夢を実現できるようなところでもあったんですが、過酷な受験戦争が進む中で起きたこの事件を契機に、地域の中で街づくりや教育を考えなければならないという動きが出てきたんですね。1989年には国連で「子どもの権利条約」が採択され、1994年に日本が批准したのだから、それを活かした街づくりをしようという動きが拡がっていき、条例づくりにつながったのです。
※5/川崎市金属バット両親殺害事件
1980年11月29日、神奈川県川崎市高津区南部(現・宮前区)にて、当時20歳の予備校生が両親を金属バットで殴り殺した事件。父は東京大学、兄は早稲田大学と家族は高学歴で、少年は劣等感にさいなまれていた。
子どもたちと一緒にどんな場所にしたいか考えながらつくってゆく―
「やってみたい」を大事にして、禁止をなくした遊び場づくり
もともとは工場の跡地。ここをどんな場所にするかということで、子どもたちも含めてみんなで話し合いながらつくっていったんです。アンケートで1725人の子どもの声のヒアリングを行い、学校の体育館などを使って、のべ287人の子どもたちが7回に渡ってワークショップをやりました。模造紙に絵を描いてもらって、そこに木の模型とかを立てて、ここをどんな場所にしたいかという設計図の段階から子どもと大人が一緒になって考えました。
運営でも子どもたちの声をきいて「子どもたちがつくり続ける、つくりかえていくという遊び場」というのが夢パークの理念。オープンの時には市長から大きな鍵を手渡されて「この場所をみんなでつくっていってね」というセレモニーでスタートしました。大事なことは「やってみたい」を大事にして、原則として禁止の看板は立てない遊び場。例えば木に登りたいんだから登らせてよ、運悪く落っこちて骨折しちゃっても「しょうがないじゃん、自分がやりたかったんだから」ということで『怪我と弁当自分持ち』。とにかく、水遊び、火起こし、泥遊び、工具を使うとか、子どもがやってみたいということは禁止しない。とても危なさそうな時は声かけはしますよ、もちろん大人は見守るし。
ただ、今の世の中は過剰なくらいケガさせない、失敗させまいという大人が増えていて、子どもたちが自分で判断して、ケガしないように気をつけるとか、危険を自分で察知する力が弱くなってきている。大人から言われないと、注意されないと自分で判断できない子どもを生みだす社会になってしまっている。今の子どもたちの悲劇は、失敗することも許されず、挑戦できる機会がなくなってきてしまっていること。成長して年齢が高くなってからいきなり失敗することで、大きな挫折感を感じてしまいます。失敗しても乗り越える力、できないことも受け入れる力が大切なんだけど、完璧を求める子育てが子どもや若者を苦しめている。完璧じゃないと自分を許せない「0か100か」タイプの子どもたちは生きづらいだろうと思う。まずこの場所で、安心して失敗することができる環境を用意することを大事にしているんです。
まずは一緒にごはんを作って食べようよ
カリキュラムを持たず、その日やることを自分で考える
Q:「フリースペースえん」とはどういうところでしょうか?
「たまりば」は30年前から学校に行きづらくなった子どもたちの居場所であり、遊び場であり、学びの場でもあります。「フリースペースえん」でも、もともと大事にしてきた「過ごしたいように過ごす」「年齢、国籍、障がいの有無を問わず通える場所」をそのままできるようにしました。ベースにあるのは日常の暮らしで、まずは一緒にお昼ご飯をつくって食べるということ。当番性ではなく、つくりたい人がつくって食べます。「ひとりじゃなかった」、一緒に食べるだけで子どもは元気になるということを実感します。ご飯のつくり方を覚えることで、生きる術を学び、自信を身につけていくということもありますね。
学校に行かない理由は自分でもわからない子が多いんです。いじめが影響していることも少なくないです。いじめの背景に発達上の課題があったりしてもそれが理解されていないことも多い。聴覚や嗅覚などの感覚過敏や、DV等による不安が多い家庭であったり、先生や同級生と相性が悪かったり、勉強のことなど理由は本当に様々です。そもそも学校の空気、一斉にみんなと同じように過ごさなければならない同調圧力と合わないという子も少なくないですね。学校が安全で安心して楽しく学べる環境なら、学校に行きたいと思っている子はたくさんいますよ。でもそこが安全ではなく、安心して過ごせない、楽しくないから行けないで苦しんでいる。その子に向かって「甘えだ」「怠けだ」「早く学校に戻れるように頑張ろう」などと声かけする大人が、まだまだ多いのが現状です。はたして変わらなければならないのは子どもの方なんだろうか?学校というところは、命を削ってまで行かなければならないところではありません。大切なのは、一人ひとりの子どもの光るところを見つけていく、その子どもに合った学びと育ちの環境を整えていくことなんだと思います。
ここでは、せっかく学校という場所から離れたんだから、自分が何をしたいのかということをゆっくり考えるために、カリキュラムやプログラムを持たずに、それも自分で考える。ギターをやりたい子はギターを、焚火をしたい子は焚火を、木工やりたい子は木工を。やりたいことをやれる環境を用意する中で、その子の個性にあったやりたいことと可能性が拡がっていきます。ゲームをやり続けている子もいるけど、かろうじてそれによって誰かと繋がるコミュニケーション・ツールのひとつと考えています。ここで一番大事にしているのは「何もしない」ということが保障されているということ。来る来ないということも自由。いろいろ選択できるプログラムはあるんだけれど、それに参加するしないも自由です。すべて自分で決めます。
進学塾講師から転身するきっかけとなったふたりとの出会い
死を考えていた14歳の自分と子どもたちが呼応した
Q:西野さんがこの仕事を始めたきっかけはどういったものだったんでしょうか?
原点である「たまりば」は6畳+4畳半のアパートで始まったんですが、きっかけは小学校1年生のシュンくんという男の子との出会い。学校行くのを楽しみにしていたんだけど、ゴールデンウイーク明けに学校に行こうとしたらお腹が痛くなって玄関先で倒れてしまった。そのシュンくんが目に涙をためて言ったのが「もう大人になれない」という言葉だったんです。みんなは2年生3年生と進級していくのに僕は一段目で踏み外してしまった。だからもう大人になれないという。「そんなことはないよ、たまたまいま学校の中に居場所が見つからなくても、学ぶことも育つこともできるよ」ということを伝えたかった。もう一つは中学校2年生のマユミという女の子がお母さんの無理心中に巻き込まれた。マユミはどうしても布団から出れなくて、お母さんは夫に助けを求めるんだけど「お前が甘やかすから」と罵られてしまった。また30年前の日本の社会状況ならではですが、お姑さんがさらに「孫が学校に行けないのは嫁の血が悪い」とお嫁さんであるこのお母さんを責めたんですね。精神的に追い詰められたお母さんが娘を道連れに無理心中事件を起こしたんです。結局母娘とも無事だったんだけど、このふたりとの出会いがきっかけとなって、学校外で学び育つ居場所を作ろう思いました。
僕はもともと、大学を卒業して、家庭の事情もあって収入の多い進学塾に就職したんです。ちょうどその頃の世の中は進学熱が強まり始めていた時代だったんですが、そこで働いているうちに自分がやりたかったのはこういうことだったのか、子どもたちを商品として見てないかという疑問が生まれてきました。子どもたちに徹底的に問題集をやらせると受験は突破できるかもしれないけど、本当にそれが子どもの最善の利益になるのだろうかという迷いがあって2年で退職しました。
その後、たまたま子どもたちの出会いから今の場を作っていくんだけれど、自分自身のことを振り返ると、自分自身が生きづらかった思春期が見えてくるんです。14歳くらいをピークに死ぬことばかり考えていた時期があって、生きていてもいいけど死んじゃってもいいじゃん?って思っていた。わりと勉強はそこそこできる子だったけど、そこまで勉強してこの先どうなるんだろうと。自分の存在が希薄だったんですね。その時の感覚が、学校で生きづらくなっている子たちと呼応したんですね、あのころの僕だと。「死んでしまいたい」と訴える子どもや若者たちと語り合いながら「一緒に生きていこうよ」と伝え続けてきた。まるであの頃の自分に言い聞かせるように。おかげで思春期を何度も生きなおたように思います。「たまりば」を開いたのは、彼らのためというよりも、僕がこの社会で生きていてもいいよねと確認するためにあった時間と場だったのかもしれません。
たかが学校に行けないくらいで命を絶たないでほしい
「生きているだけですごいことなんだ」ということを伝えたい
この30年間に出会った子どもたちで救えなかった命がある。その数は片手では足りない。本当に悔しい。救えると考えること自体がおこがましいのかもしれない。何とか生きて欲しいと願いながら言葉が届かずに、環境も変えられないままに命を落としていった子たちがいる。長く子どもの現場にいて大事に思うことはシンプルなことだ。「生まれてくれてありがとう」「あなたがいてくれて幸せだよ」。これを子どもたちに届けること。たとえ言葉にならなくても、この思いを親から子へ伝えられたら幸せだ。でもそれがかなわない時は、親に代わって地域の誰か、「第3の大人」が伝えよう。
子どもは幸せになるために生まれてきたと信じたい。子どもたちが「やってみたい」と思うことの邪魔をしない。大人の「良くしよう」というアドバイスが、しばしば子どもたちのやる気を奪うことがある。子どもの好奇心の芽をつまないこと。ゆったりとした時間の中で、子どもたちは試行錯誤を繰り返しながら、自ら成長していく。子どもを信じ、大人は肯定的なまなざしをもって、ただ子どもの傍らに居るだけでいいんだ。
監 督:重江 良樹しげえ よしき
大阪府出身。映像制作・企画「ガーラフィルム」の屋号で活動中。大阪市西成区・釜ヶ崎を拠点に、映画やウェブにてドキュメンタリー作品を発表すると共に、VPやネット動画など、幅広く映像制作を行う。子ども、若者、非正規労働、福祉などが主なテーマ。2016年公開のドキュメンタリー映画『さとにきたらええやん』では全国で約7万人が鑑賞、平成28年度文化庁映画賞・文化記録映画部門 優秀賞、第90回キネマ旬報ベストテン・文化映画第7位。
虐待やいじめ、子どもに関する悲しいニュースが溢れている昨今―
常に子どもを中心に最善を考える「川崎市子ども夢パーク」との出会い
Q:本作を撮影するきっかけ・経緯は何だったのでしょうか?
前作『さとにきたらええやん』の感想の中で、「私が子どもの時にはこんな場所は無かった」、「私の子どもにもこんな場所があれば」という風におっしゃる方が何人かいて、それがずっと引っかかっていました。居場所や信頼できる大人の存在がある子と無い子、その差があること自体不平等だなと思っていたんです。日々のニュースを見てても、虐待やいじめ、自死など、相変わらず子どもに関する悲しいニュースは減らない。そんな中で僕にできることといえば「子どもの居場所」のことを伝えることだなと感じていました。
今回の舞台である「川崎市子ども夢パーク」(以下、ゆめパ)のことは、当時所長だった西野さんの講演を聞いたこともあって存在は知っていましたし、前作の舞台である「こどもの里」同様、「いつも子どもを中心において、その子の最善の利益を考える」という理念も共通していました。そして改めて“子どもの居場所”についての映画を作ろうと考え、ゆめパを何度か訪ねました。子どもたちの「やってみたい」に大人は余計な口出しせず応援する姿勢や、「失敗しても大丈夫」という視点、そして子どもたちの声を元に生まれた経緯や、不登校の子の居場所や学びの保障を行っていることに感銘を受け、撮影のお願いをしました。
当たり前にそこに居るようなカメラの存在感を心がける
間近で見つめていった、子どもたちの遊びの魅力
Q:撮影を始めてみて、実際はいかがだったでしょうか?
前作同様に、いきなり子どもたちにカメラを向けるのではなく、重江という人が映画を撮りに来ていていつもカメラを持っている、ということを場に馴染ませるように心がけました。なので最初の三ヶ月ぐらいはほぼカメラは回さず、子どもたちと遊んでいました。あとは、映画制作をするにあたって、ほぼ毎日いる子とそうでない子を見分けることも当初はしていましたね。それと自主保育をやっている人たちがいて、この人たちもほぼ毎回会ってたので仲良くなったし、自主保育というものに興味も持ったので、まずはゆめパを利用する乳幼児親子の撮影を進めていきました。裸足で土を踏み泥だらけになって遊んだり、火おこしをしたり工具を使って物づくりをして遊んだり、子どもたちが何かに挑戦してゆく姿は魅力的で、今の社会だと「ほぼ許されないよな」と思いつつ撮影していました。まずは子どもたちの魅力的な遊びを撮りつつ、カメラを持った僕の人となりを知っていってもらった感じです。その後の「フリースペース えん」での撮影も同じで、少しずつ子どもたちと距離を縮めつつ進めていきました。
センセーショナルな出来事や大きな変化を捉えた作品ではない
子どもたちの個々の輝きや微細な変化から見えてきた映画のかたち
最初の一年目でプレイパークエリアや自主保育、「こどもゆめ横丁」の撮影をしながら主となる子たちの撮影もしていましたが、一年で終われる撮影の分量では無かったので、二年目はもう少し子どもたちに寄った撮影を進めていきました。センセーショナルな出来事や、子どもたちの大きな変化を捉えた映画ではないのですが、こどもゆめ横丁を経て、サワが勉強をしだして夢を語り始めたこと、リクトの将来の夢を聞けたあたりから、映画のかたちが見えてきたかなと思います。
Q:登場する子どもたちの表情がとても豊かです。主要な4人の子どもたちを選んだ理由はなんでしょうか?
リクトは初めて会った時から魅力的な子で、生き物に興味を持つ小さな哲学者という印象でした。本編に入っていない場面でも、虫を取って眺めている時間が長かったのですが、彼が虫という命を見つめながら何を感じ、考えているのかを掴めれば、この場に流れる多様な学びの時間を表現できるのかなと考えていました。あと映画の後半の「将来の夢は投資家とか」という答えは素晴らしかったですね。自分や社会の事をめちゃくちゃ冷静に見つめて考えていることの現れですから。
ヒナタもリクト同様に虫や植物に興味を示す子で、図鑑なんかを眺めてる時間の多い子でした。リクトと同じ理由で彼の撮影もしていたのですが、インタビューにもあるよう学力に対して特有の悩みを抱えていました。ただ、こうした悩みは誰もが持ちえることで、ヒナタの悩みは彼より少し上の世代の子たちも経験し、その後どのように生きているかを見せてくれている。ヒナタ自身の大きな変化はこの撮影期間では表せないけれど、多世代が集うこの場での世代間の連なりを映画の中で表現できればとは考えていました。多様な人が集う場で、無意識にも周りから刺激を受けているという事です。
ミドリは僕がゆめパに通いだした頃と同じタイミングで来た子で、来てからまだ日の浅い子はこの場でどのように過ごすのかに注目していました。ただ、彼女はあっという間に周りと馴染み、木工に興味を持ち、来る日も来る日も木工をしてるのが印象的で、ミドリの豊かな時間の過ごし方を伝えたいなと思いながら撮影していました。泣く泣くカットした場面も多いですが、木工以外にも色んな事に興味を示し、ゆめパをめちゃくちゃ楽しんでいる子でした。
サワは木工もそうなのですが、沖縄の三線などにも興味を持ち、横丁への参加や実行委員も精力的にこなす、もうゆめパをフルに利用している!といった子で、ゆめパを描くにはこの子だとすぐに思いました。横丁自体はこの映画の核になるかもという意識はあったので、サワとミドリのチームを中心に撮影を進め、横丁や他の子どもたちの魅力的な姿も絡めることが出来たと思います。サワはその後に夢を持ち、どのように生きるかを考えだすのですが、進路について悩んだりアドバイスをもらったり、そして挑戦する姿は、こうした場があったからこそ出来たことでもあると思います。ゆめパをフル活用して過ごしてきたサワはこの映画には欠かせません。
いつかは大人になってゆく子どもたち
充実した“子どものじかん”が大人になった時に必要になるはず
今回は個々の掘り下げというよりは、なるべく多くの子のゆめパでの時間の過ごし方を描きたいと考えていました。主に「フリースペース えん」の子が中心になりましたが、いわゆる不登校モノの作品にするつもりはありませんでした。学校外の居場所で安心して過ごすことができ、好きなことをしながら様々なことに出会い、経験することにより、それが多様な学びになることを伝えたかったんです。もちろん一人一人は全くの別人格ですが、その連なりが夢パークという場の在り方や有用性を示してくれるのかなと考えていました。
Q:子どもたちや居場所の現在だけでなく、進路や将来についても描いています。その狙いはなんでしょうか?
子どももいつかは大人になり、忙しない時間の中を生きていきます。映画の中で職人さんがサワに、「作っていて楽しいだけではない世界」と話す場面がありますが、仕事となると好きや楽しいだけでなく、時には厳しさや責任というものも発生します。そうすると“じかん”と時間がせめぎあい、時間に追われ心が削られていく。多くの大人は経験があるのではないでしょうか。そんな中でこうした“じかん”の経験があると、大人になり社会で流れている時間と、自分自身の“じかん”との折り合いがつくのではないかなと思います。私自身も忘れかけていた“じかん”でもあるし、そういう意味では大人にもぜひ観てほしい映画です。
Q:撮影の最中、新型コロナウイルスの感染拡大がありました。2020年春には全国で学校が閉鎖されたりと子どもたちを取り巻く状況は大変だったかと思いますが、撮影中の印象はいかがだったでしょうか?
コロナ禍での利用者のインタビューもしたのですが、本当に行ける場所がない、公園に行っても嫌な顔をされる、家の前で遊んでいても苦情がくるなど、多くの方からストレスフルなお話を聞くことが出来ました。最初の緊急事態宣言の時、職員さんたちは毎日何時間も会議を重ね、どのようにこの場を維持していけるかを話し合われていたそうです。夢パでの子どもたちは密にならない遊びを考え、ペットボトルのキャップ投げや、大きな塩ビ管に乗ってどこまで行けるかなどの工夫をしていました。印象的なのは、どうすればボール遊びが再開できるか、こどもゆめ横丁が実現できるかなど、スタッフに交じって子どもたちも話し合っていたことです。ちゃんと子どもの声を聴くということの現れですし、当たり前のように子どもが話し合いの輪に入って話している姿をみて、これまでも日常的に行ってきた事なんだと思いました。
「こんな場所いいよね、必要だよね」と思ってくれたら嬉しい
子どもたちの豊かな「じかん」を感じてもらえたら
Q:児玉奈央さんの音楽が印象的ですが、どのような理由で選んだのでしょうか?
児玉さんは西野さんとの雑談の中で、「昔うちに来ていた子で、歌手やってる子がいるんだよ」と聞いたのがきっかけでした。児玉さんのお母さんが昔「たまりば」で働いていて、お母さんと一緒に来ていたのが児玉さんだったそうです。柔らかい楽曲や歌声、子どもの世界に通ずる不思議で少し尖った歌詞も、優しい歌詞もこの映画に合うなと思ってお願いしました。
Q:タイトルに込めた思いを教えてください。
ゆめパで過ごす子どもたちが、何者にも邪魔されず思いっきり自由に過ごせる豊かな「じかん」。そうした抑圧の無い「じかん」の中で、子どもたちは様々なことを感じ、考え、育っていると思います。そしてゆめパに流れるこうした「じかん」が全ての子どもたちにあるよう願いを込めて『ゆめパのじかん』と付けました。
観た人が「こんな場所いいよね、必要だよね」と思ってくれるのが一番です。また、信頼できる人たちに囲まれ、安心安全が保障された場では、子どもたちはその力をフルに発揮できると僕は考えていますので、色んな事に挑戦したり、悩みや不安も跳ね返すような、こどもの力を感じられる作品になればと思っていました。夢パークで過ごす子どもたちの豊かな「じかん」を感じつつ、観てもらえれば嬉しいです。
構成・プロデューサー:大澤 一生おおさわ かずお
1975年、東京都出身。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後は数々のインディペンデント・ドキュメンタリー映画の製作に主にプロデューサーとして携わり、2008年より「ノンデライコ」名義での活動を開始。近年は製作だけに留まらず、配給~宣伝活動まで担うことも多く、製作から劇場の観客に届けるまで一貫させる動きを展開している。近年のプロデュース作品では『フリーダ・カーロの遺品 - 石内都、織るように』(15/小谷忠典監督)、『さとにきたらええやん(15/重江良樹監督)』、『タゴール・ソングス(20/佐々木美佳監督)』等。構成、編集協力、配給等での参加作品も多数。
編集:辻井 潔つじい きよし
1979年、東京都出身。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後、安岡卓治に師事。編集助手を経た後、編集者として様々な作品に携わり続ける。主な編集作品に、『花と兵隊』(09/松林要樹監督)、『ただいま それぞれの居場所』(10/大宮浩一監督)、『ミツバチの羽音と地球の回転』(11/鎌仲ひとみ監督)、『ぼくたちは見た − ガザ・サムニ家の子どもたち− 』(11/古居みずえ監督)、『隣る人』(12/刀川和也監督)、『ドコニモイケナイ』(12/島田隆一監督)、『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』(12/小谷忠典監督)、『イラク チグリスに浮かぶ平和』(14/綿井健陽監督)、『赤浜ロックンロール』(14/小西晴子監督)、『さとにきたらええやん』(15/重江良樹監督)、『夜間もやってる保育園』(17/大宮浩一監督)、『インディペンデントリビング』(20/田中悠輝監督)ほか。
音楽・ナレーション:児玉 奈央こだま なお
1980年、神奈川県出身。2005年、唄とマンドリン、ギターからなるアコースティック・ユニット ”YoLeYoLe”を結成、2007年1st Album『ひかり』をリリース。湘南を拠点に全国の野外イベントやカフェ等数多くのライブツアーを行い、各地で人気を得る。2009年、児玉奈央として1st solo Album『MAKER』を、2010年 2nd Album『SPARK』をリリース。2011年、カバーアルバム『Family Songs』(児玉奈央と青柳拓次)を発売。2014年8月、活動を休止していたYoLeYoLeが再始動し、2015年7月 2nd Studio Album『こぶね』をリリース。現在はソロでの活動を中心に「Fuji Rock Festival」「頂」などの野外フェスやイベントに多数出演。TV-CMソングの歌唱でも活躍中。心地良く柔らかいながらも、時に力強い唄は人の心にまっすぐ届く。印象的なその唄声に魅了されるファンが多い。
『ゆめパのじかん』
2022/日本/90分/日本語/カラー/ドキュメンタリー

出演
川崎市子ども夢パークに集う皆さま/フリースペースえんの子どもたち/認定NPO法人フリースペースたまりばの皆さま/風基建設株式会社の皆さま

スタッフ
撮影 重江 良樹/編集 辻井 潔/構成・プロデューサー 大澤 一生

宣伝デザイン
成瀬 慧

宣伝
ウッキー・プロダクション/リガード

制作協力
認定NPO法人フリースペースたまりば

撮影協力
川崎市/川崎市子ども夢パーク/公益財団法人 川崎市生涯学習財団/夢パーク支援委員会/ちいくれん(地域で子育てを考えよう連絡会)/風基建設株式会社

撮影素材提供
山口 正芳

協力
タフビーツ/笠井 亜美/田上 沙也加/クラウドファンディング支援者の皆さま

音楽・ナレーション
児玉奈央

挿入曲
「金星のダンス」「MAKER」「カミナリ」「アーユーレディ」
作詞・作曲 児玉奈央

助成
文化庁文化芸術振興費補助金 映画創造活動支援事業 独立行政法人日本芸術文化振興会

企画・製作
ガーラフィルム/ノンデライコ

配給
ノンデライコ

監督
重江 良樹